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空から志摩半島 館長ブログ150

 前回の続き。伊勢を朝早く出発して南紀白浜には午後遅く到着、乗り換えを含めれば8時間近くになった。大阪天王寺を経由しても近鉄線2時間とJR線2時間で東京に行くより時間がかかる。これが羽田からだと南紀白浜空港まで1時間15分。白浜が遠いというより、伊勢志摩が不便なのだ。航空機に勝る移動手段はない。  ところが昭和30年代には志摩~白浜間に空路があった。大阪の日東航空が昭和34年、名古屋~大阪間に紀伊半島一周路線を設け、途中、白浜や串本、賢島にも着水することになったからで、昭和36年の時刻表には週3便の運航が掲載されている。名古屋空港を13時25分に離陸、賢島発14時15分、串本15時10分、白浜15時40分、大阪空港に16時30分着陸とある。志摩の賢島から白浜までおよそ1時間半で、現在の羽田~南紀白浜間と同じ所要時間で移動できたことになる。

グラマンG-37マラード

 使用機体はグラマンG-37マラードという水陸両用の12人乗り小型飛行艇で、名古屋と大阪では胴体横に格納された車輪で着陸した。着水のできる飛行機で胴体下部が船のかたちになっているのが飛行艇、脚の代りにフロートを付けたのを水上機と呼び、この時代は滑走路の要らない水上機や飛行艇が活躍していて、日東航空も瀬戸内海を中心にいくつかの路線を展開していた。昭和30年代の観光ブームを受けて日東航空は業容を拡大するが、不安定な経営のなかで事故が多発し、運輸省の指導で同業数社と合併、その後、東亜国内航空を経て日本航空に統合され、姿を消した。  昭和36年に刊行された京都伸夫という作家の小説『わたしは真珠』(東方社)にこの路線が取り上げられている。大阪の女性雑誌記者「パールちゃん」が紀伊半島を一周して志摩に行くくだりだ。「伊丹空港で、グラマン・マラード水陸両用飛行艇を見た時、私は思わず微笑した。『何てロマンチックな飛行機やろ』(中略)十四人乗りの飛行艇は、ほぼ満員である。新婚旅行と一ト目でわかる客が四組いた。あとは白浜へゴルフに行く中年の客と、浮気の旅らしい、中年男と若い娘が乗っていた。」そして離陸。乗り心地は「ロープウェイのゴンドラのようで」、眼下に春の日を受けた黒潮と白い灯台を眺め「私は高度七百メートルほどを飛んでいる飛行艇の窓から白浜を夢中になって撮り続け」35分で白浜の沖に着水。客の乗降の後、離水。15分で串本に下り、その後は熊野灘の上を奥志摩に飛ぶ。志摩に入ると「それまでとはうってかわった女性的な、優雅な湖のような多島海風景が総天然色のシネマスコープの画面のように展開」し、「賢島の沖合いの英虞湾へ着水してランチで賢島の桟橋まで運ばれながら私は風景に酔いしれた」といった具合で、作家が実際に搭乗したことがわかる。羨ましい話だ。

ボーイング314

 英虞湾は波が穏やかで、飛行艇の離着水には都合が良かったのだろう。戦後間もない時期にノースウエスト航空が飛行艇就航の話を御木本幸吉に持ちかけた。幸吉を英虞湾の主とでも思ったのか。週一回、八十人乗りの飛行艇を立ち寄らせるというプランだ。この話を受けて幸吉は、年間五千人近いアメリカの富裕層の懐具合を狙っているわけではないが、と前置きして、「せっかく観光に来たこれらの人達に金を使ってもらうことが観光日本の為に望ましいからやむを得ない」(『加藤龍一『真珠王』)と述べ、戦後復興のプランを練った。

 この話はずいぶん前にホームページで紹介したことがあるが、戦後は航空機の発達と滑走路の整備が進み、大型飛行艇の役割は終焉を迎えていた。戦前にパン・アメリカン航空が太平洋路線に就航させた飛行艇はボーイング314だったが、ノースウエスト航空がこの最大74席の長距離飛行艇を就航させたという記録はみられない。

上空から見た志摩

 「空から日本を見てみよう」という楽しいテレビ番組があった。くもじいとくもみは今頃どこの空を漂っているのだろうか。低空の遊覧飛行には水上機がふさわしい。実際に近年、コディアック100のフロート付水陸両用機を使って「せとうちSEAPLANES」という会社が尾道を中心に観光飛行を行っていた。富裕層に人気だったが、2021年、感染症拡大による業績悪化で撤退を余儀なくされたという。残念。

コディアック100

 この事態が収まったら、次の一手でセントレアから水上機で伊勢志摩観光というようなプランはいかがだろう。懐具合を狙っているわけではないが、このような余裕のあるマニアックな遊びの要素が観光日本の為に望ましいのではないか。

(2022年3月3日)

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