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樋の山 館長ブログ130


金比羅さんからの風景(2020年6月27日)

  海の町鳥羽を高い所から眺めれば、その海岸線と島影の織り成す美しさは一層際立って映る。鳥羽駅裏に日和山、市街の中心は城山、そして町の背後に聳えるのが樋の山(ひのやま)で、どこに登っても鳥羽湾の風光を楽しむことができる。観光客で賑わうことはなく、三密とは無縁で、その意味では今の時期、お勧めのスポットといえるだろう。今更ながら、観光の原点は国の光を観ることである。遠出をためらっている諸兄はこの際、近くの高台に登って眼下の風景を眺め、自然と人の生業に思いを巡らせて見ては如何。


樋の山 皆春楼の絵葉書

 土地の魅力を発見するのは、そこを良く知る地元の者よりも他所から来た人である場合が多いようだ。鳥羽も例外ではなく、大正の初め、鳥羽の風景に魅せられたひとりに大阪岸和田の旧藩士一森彦楠がいた。一森を中心に東京の財界人が大正6年、東洋遊園地株式会社を設立、樋の山は園地として開発されることになる。その山の頂に建てられたのが旅館皆春楼だった。尾田寛光『鳥羽のこぼれ話』(1991年)に、鳥羽湾の景観を眼下にした和風のしとやかな佇まいで、庭園と茶室が周囲と融和して良い雰囲気を醸し出していたと紹介されている。宿に続く広場には台湾館なる展望台があり、これは大正博覧会の払い下げだった由。ちなみに樋の山は山間から流れ出る水を筧(かけひ)に取って町内に送った筧山に由来するという。尾田さんは鳥羽観光協会の理事として数々の実績を残された方だ。同書で「自ら鳥羽狂と称した一森彦楠のことは機会があったら改めて記述しよう」としているが、残念ながら機会は訪れなかったらしい。  その岸和田藩で最後の殿様となった子爵・岡部長職(ながもと)も鳥羽が気に入り、しばしば避暑に訪れたことが『旧岸和田藩知事岡部長職公の想い出』(1989年)に記されている。外交官、政治家として活躍した人物の例にもれず、岡部子爵もまた遊びの達人であったようだ。その優雅な休日の様子をここに紹介しておこう。  大正6年7月、東京に居を構えていた岡部一家は暑を避けるため樋の山の皆春楼を訪れた。まずは接待役や地元名士を加えての舟遊びである。子爵一家のヨットは、お付の一行を乗せた小艇を曳いて鳥羽湾内を遊弋、島々の景色を楽しむ。午後の陽射しが強くなると、姫君は水着に身を固めて水没し、ヨットに並んで泳いだという。海女顔負けだ。そうしてまず一日目、船遊びを満喫する。翌日も朝から船を出し、鳥羽湾にそそぐ加茂川を遡上。適当な河原に陣地を張って、網で得た魚介を焼いて午餐とする。夜は宿に戻って一同で謡曲を楽しんで二日目。川狩りがお気に召したのか、翌日も加茂川で投網。その獲物は夜の宴会の膳を賑わした。接待役が鳥羽を去る最終日は岸和田に伝わる盆踊りを一同で踊ってめでたくフィナーレ。殿様ご一家はその後もしばらく鳥羽に滞在して閑雅なる日々を楽しんだことだろう。舟遊び、魚とり、河原でのバーベキューなど今の私たちにも親しい屋外活動と、謡いや舞、景色を題材に歌詠みという技能を必要とする遊びを取り混ぜることで、休日は五感を開放する豊かな時間となる。富裕層のリゾートライフ、斯くの如し。

 樋の山の園地も皆春楼も今はない。山の中腹に盛業中の旅館扇芳閣の前を過ぎ、狭い道路の先、豊かな緑の中に金刀比羅宮鳥羽分社が鎮座する。その本殿横の展望台から鳥羽湾を望むとき、かつて眼下の一帯に園地があって、風雅な宿に文人墨客が集い、ゆるやかな時間を過ごしていたことに思いを馳せるのもまた、風景の楽しみ方のひとつといえる。

(2020年7月3日)

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