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一号記念碑と珠の宮 館長ブログ158

更新日:2022年11月1日



2023年は御木本幸吉が最初の真珠養殖に成功してから130年目の年になる。真珠産業発祥の地として、その意義の啓蒙と継承に努めなければという思いを新たにする機会といえよう。

島内に入場して最初に目につくのは「養殖真珠第一号」のモニュメントだ。プレートには「養殖真珠第一号ここに生まれる」と記されている。これを見れば、この場所で幸吉夫妻が最初の真珠を手にしたものと誰もが思うことだろう。だが、このモニュメントは昭和43年に養殖真珠発明75周年を記念して建立された記念碑で、来客をお迎えする最初の場所にこの島の意義を表す目的で設置された。「ここ」は島全体を意味し、地点を特定しているわけではない。

 では昭和43年の建立以前はどうだったか。幸吉夫妻が真珠を手にした場所はどこなのか。そのあたりを新聞のスクラップから探ってみよう。

 昭和35年8月7日の中部日本新聞は次のように伝える。

「鳥羽市の御木本真珠島は養殖真珠発明記念地のクイを立て、故御木本幸吉翁の記念の地をもっと名物にしようと考えている。(中略)養殖真珠の第一号を発見したのはやや小高い古木の植えられ

    養殖真珠第一号記念碑


ている付近で、現在玉の宮(ママ)がまつられ、丸い石がぽつんと置かれている。(後略)」

 第一号の発見は現在、珠の宮の鎮座する付近だったという。珠の宮は小高い岡の上なので、社に向かう階段の辺りを指しているものと思われるが、この頃はまだ整備されておらず、ようやく標柱を立てたという状態だった。

 取締役として社業の発展に尽くした上井兼尚氏は昭和25年、真珠島を訪れた際の印象を次の様に語っている。島は戦争による閉鎖で荒廃しており、再開の準備が行われていた。

 「相島の中央部分は全体が緑鬱蒼とした森である。椎の古木が横たわっている向こう側に朽ちた社がある。石段の前に相対してこま犬が座っていた。附近は森でシダ等が生い茂り、昼間でも薄暗く感じる。説明によると、この山全体が昔からの島で今平地になっている所は全部後ほど埋め立てられた所だそうである。(中略)私は、『ここが波打ちぎわで、御木本夫妻が…』と、当時を偲んで感慨に深く浸った。」(上井兼尚『鳥羽真珠島とわたし』1980年)

 島は昭和4年に「真珠ヶ島」として整備され、幸吉の賓客をもてなす場所として使われていたが、戦時下の昭和18年3月にすべて

                              中部日本新聞 昭和35年8月7日


の施設を閉じ、海軍の伊勢防備隊に収用された。上井氏の文章は海軍に接収されて荒れ果てた島内の様子を良く伝えている。

 文中にあるように、銅像前の広場を含めて施設のある場所は明治から大正時代にかけて埋立て整備された区域で、博物館とパールプラザの間は入江になっていたのではないかと想像される。鳥羽の町中からは見えず、若き幸吉が人目を避けて養殖実験を行うには最適の浜辺だっただろう。

島は翌26年、御木本真珠ヶ島として一般公開される。初期の案内図を見ると、この場所は養殖真珠誕生の地と表記されていて、珠の宮の表示は見られない。


 では戦前はどうだったのか。昭和9年10月5日の大阪朝日新聞に以下の記事がある。



博物館とパールプラザの間から珠の宮方面


「真珠王御木本氏は真珠ヶ島にほこらを建て敬神の誠を捧げようとこのほど山林を開墾中小さな石の茶臼の半分を発掘したが、これがなんと鳥羽城を築いた九鬼嘉隆公が三韓征伐に大功をたて豊臣秀吉公から褒美としてもらった茶臼であった。この真珠島には以前九鬼公の茶室があり朝夕茶をたてて楽しんでいたその茶臼であるが真珠王はこれも何かの引き合わせとばかりこのほこらの祭神としここに真珠養殖に成功した当時の真珠貝とともに祭り『真珠島臼の宮』と命名した。」


                                開島当初のチラシ

 これは驚き。珠の宮はそもそも臼の宮だったという。ただし記事の信憑性は如何なものか。朝鮮出兵を三韓征伐とするあたりも怪しいが、そもそも九鬼嘉隆が秀吉から茶臼を拝領したことや相島に茶室があったなどという話は聞いたことがない。同時期の写真で臼を祭った神社の様子はわかる。中央に置か

  大阪朝日新聞 昭和9年10月5日


れたのは「阿波幸」由来のうどんの粉ひき臼のようだ。場所は現在の珠の宮、左右の獅子も同一とみられ、ともかく、この「臼の宮」が珠の宮の出発点ということになる。

          昭和9年11月1日 万国赤十字英国代表一行と共に

 

 もともとこの島には弁財天を祀る社があり、明治20年代まで鳥羽町民の間で祭祀が行われていた記録がある。「真珠ヶ島にほこらを建て敬神の誠を捧げよう」という幸吉翁の篤い信仰心はこうした史実を踏まえた上でのことと思われ、戦前の臼の宮、戦後の珠の宮として受け継がれている。社殿を高台に置いたのは第一号の真珠を発見した浜辺を見下す位置だったからで、珠の宮と一号発見地は不離の関係だった。けれど、真珠島を真珠誕生の地としてすべての来島者に理解してもらうためには、奥まった場所は不利だ。移設には議論があったことだろうが、一号記念碑は現在の場所が適切としなければならない。

  現在の「珠の宮」

(2022年10月29日)

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