「賽銭のお釣りをもらった話」館長のブログ192
- Blue East
- 1 日前
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新年おめでとうございます
初詣にお出かけになりましたか。今回はお賽銭に関する御木本幸吉のエピソードを。
「幼時から敬虔の念の篤かった幸吉は、宇治や山田を通る時は必ず神宮に参拝し、参拝すれば必ず玉垣の石垣の下にひざまずき、賽銭を差し上げ、柏手を打って恭しく礼拝する。賽銭は始め頃は文久通貨一枚、寛永通貨一枚、いずれも今日は見られない厘銭であるが、身分のようやく高上するにつれて、一銭銅貨一枚となり、二銭銅貨一枚となり、決して違わなかった。ある日参拝して御門前にひざまずき、懐中の財布から手探りで二銭銅貨を差し上げるつもりで、五十銭銀貨を上げてしまった。身分不相応だと考えると、さあどうしても気が済まないので、神宮衛士の方へ申し出た。大勢の参拝者の沢山の賽銭のことゆえ、調べられないといって断られたが、幸吉は貧乏で二銭の賽銭を奉納する身分であって、まだ断じて五十銭をさしあげる身分でないから、どうかお手数でもお調べを願いたいというので、衛士も幸吉の真摯な態度にうたれてその要請を容れ、ついに四十八銭のお釣りを頂いたのである」(乙竹岩造『伝記御木本幸吉』雄弁会講談社 1950年 第8章406㌻を原文のまま引用)
『伝記御木本幸吉』は女婿の乙竹岩造が晩年の幸吉に聞き取りした話をまとめたもので、若い日の出来事は印象深く記憶されていたのだろう。
このエピソードはいつの話なのか、確かな年代は記されていないが、幸吉は貧乏といっているので真珠養殖に成功する以前であることは間違いない。とすれば明治20年代、それも前半までのことだろう。明治20年頃の2銭とは今の感覚でいくらくらいになるのだろうか。
明治20年の米価を見てみると1升(約1.5キロ)で5銭5厘とある。1キロ当たりでは3銭6厘。現在、1キロの米はおおよそ900円。これをもとにして計算すると、当時の1銭は現在のおおよそ250円に相当する。この換算比率だと、そばの値段1銭が250円、東京での大工の日当50銭は12,500円、はがき1銭は250円と、今の感覚と少しズレはあるが、おおよそ、この額で話を進める。
明治21年上野黒門町に開店した喫茶店「可否茶館」のコーヒーは一杯1銭8厘(450円)。牛乳入りは2銭(500円)だったとある(岩崎爾郎『物価の世相100年』読売新聞社1982年)。幸吉が自分の分相応として賽銭箱に投じた2銭は現在の500円玉と考えてよさそうだ。お賽銭は10円と決めているワタシにはお大尽と映る。
2銭が500円なら50銭は12,500円だから随分な違いがある。間違えて入れてしまったが、25倍の御利益があるだろうと自分に言い聞かせて諦めるしかない。けれども幸吉としては自身の分相応ということで賽銭を2銭と決めていたので、それ以上を投じることは過ぎた話として納得できなかった。そもそも貧しい身代では日々の暮らしに差し支える。けれども、この上は衛士に申し出て48銭のお釣りを請求する、という考えは、常人の着想ではない。第一、そんな願いなど聞き入れてもらえそうもない。
永井龍男の伝記小説『幸吉八方ころがし』(筑摩書房 1963年)は、このあたりを次のように描いている。
名前と住所を名乗って、賽銭箱を開けて自身が投じた50銭銀貨があるかどうか調べるように頼み込む幸吉に、衛士のひとりが、そう簡単には行かないと応じる。それに対して幸吉が「賽銭というものは、まごころの証です。間違って入れた鳥目(金銭)をそのままになさるのは、お伊勢さまも決してお喜びじゃあありません。まして私のような貧しい者が、それで苦しむというのは御神慮にそむくことです。私にとっては大金ですし、ああ惜しいことをした。取り返しがつかないと、後々まで考えるようでは、お伊勢さまに申し訳が立たない。それでは死金です。私を信じるなら、どうか四十八銭お返し願います」と嘆願する。
渾身の大芝居だ。その気迫に押されて衛士たちは相談、ひとりが声を低めて「こんなことは後にも先にもない。特別な配慮でお返しはしますが、内聞にして下さらんと、われわれの落度になります」といい、48銭のお釣りを手渡したという。
昭和21年、88歳になった幸吉は米寿の祝いに外宮と内宮を結ぶ新道路開設のために50万円を宇治山田市に贈り、別に50万円を神宮基本財産として神宮司廰に託した。若い日の賽銭のお釣り48銭を60年後に100万倍にして捧げたことになる。これが分相応というものだ。
いい年をして10円のお賽銭は考え直した方が良いかもしれない。
2026年1月14日
松月清郎
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