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「御木本幸吉の商売戦略」館長のブログ196

  • 21 時間前
  • 読了時間: 5分

乙竹岩造の『伝記御木本幸吉』から原文のまま引用する。

「僕は養殖真珠の方法については、随分苦労したが、しかし、その売り方に対する苦心もこれに劣らない。実際に商売をした者でなければ、その辺の消息は共に談ぜられないが、需要と供給のつり合いを睨んで価格を維持して行くのは、かなり難しいことなのだ。僕は養殖真珠を初めて売り出した時から、その商略についていろいろ考えた。そして採取した真珠の十分の二以上は市場に出さないことにした。十分の二というのは、価格がいつでも三円以上のものに限るという意味なので、一円や二円や二円五十銭位までの品は、みな土の中に埋めてしまって、決して売りには出さないのだ。ある人は、このやり方を聞いて笑ったそうだ。御木本はなぜ格安の品を売り出さないで捨ててしまうのだろう。商売気のない奴だと陰口をきいている人もあるそうだ。だが、ここだて、大いに考慮の要るのは。今日この真珠の値が上がって、ほとんど従前の三倍にもなり、それでどんどん売れて行くのは僕がよく需給の関係を考えて、不良の真珠を捨ててしまったからではないか。もし僕がただ金を儲けさえすれば良いと思うのなら、それは朝飯前の仕事なのだ。しかし、僕はそんなことをして、真珠という日本の名宝の価値を下げたくないのだ。」

 「売り方についてもそうなんだ。先年渡辺洪基さんにお目にかかった時、渡辺さんがこう言われた。御木本君、君は商売の方を知らぬ男だ。もう少し盛んに広告をやれ。そしてなるべく人の目につくような仕方でやらなくつちゃいかん。例えば一流の役者とか芸者とかいう連中に真珠を安く売ってやって、なるだけたくさんの人に吹聴させるが良い。幸い、自分は團十郎や菊五郎も良く知っているから、喜んで紹介しようじゃないか。と、こうでしたが、僕はお断りしました。いやそんなにまでして、むやみに売りたくない、あらゆる人に吹聴して貰ったり、やたら広告をしたりして売るような品物とは価値が違うのです。つまり、真珠そのものの価値を立派なものにしさえすれば買いたい人はいつでも買いにきてくれるので、これが僕の生涯の商略です。先日なども外国人が二百人も店に買いに来た。値段が三倍近くにも上がっているので、非常に高いといった。そんなに高いと思うなら買わないで帰った方がよかろうといってやった。事実僕は、それが売れなくても遺憾とは感じない。」

 

明治39年の『工業所有権雑誌』に「真珠販売上の抱負」として48歳の御木本幸吉が述べた信念である。商略は商売上での策略の意味。

幸吉のことを商売を知らぬ男といった渡辺洪基は東京帝国大学の初代総長で、役人が商人に商売上の忠告をするのも妙な話だが、帝大の総長だからといって、はい、そうですねと追従しないところが幸吉流だ。

この時代、真円真珠はまだ商品化されておらず、御木本真珠店が扱ったのは半円真珠だった。いろいろなサイズがあったようだが、今、標本として博物館に残る半円真珠は大きなもので直径9ミリ。天然のハーフパールでは望めないサイズだ。

ハーフパールは丸い天然真珠を半分あるいはそれ以上にカットしたものをいい、そのふくらみを利用して、西欧でジュエリーの素材に普通に使われていた。といっても、丸いままで通用するような大きくて美しい天然真珠を半分にカットすることはなく、ハーフパールのほとんどは3ミリ前後といった大きさだった。

9ミリの半円養殖真珠の存在感は天然のハーフパールをはるかに圧倒する。真珠層の厚みがおよそ1ミリ。これは現行の真円養殖真珠で上等とされる厚巻き珠の2倍ほどもある。

養殖した貝殻から半円の部分を切り取り、核を抜いて代わりに半球状に削った貝殻をはめ込み、裏側も貝殻で覆う。そのように美しく細工を施せば、装身具の素材として申し分ない。

記録によると、第一回の半円真珠採取は明治31年12月。この時に浜揚げされたアコヤガイは明治28年の春、英虞湾に放養されたもので、養殖期間は約3年に及んだ。

貝の内面に厚みのある真珠層を重ねるには、それだけの時間が必要とされた。ちょうどウイスキーの熟成のように、じっくりと時間をかけて貝は輝きを蓄えていったわけだ。

しかもそれらの真珠のうちで幸吉の眼鏡にかなって商品として世に出たのは2割というから、実に贅沢な話だった。

それほどまで、御木本幸吉は自分の作り出した養殖真珠に自信と責任を持っていた。前述の引用はそうした自負のあらわれといえようか。

先人の言葉は時と共に重みを増す。

 

引用:乙竹岩造『伝記御木本幸吉』 講談社 1950年 (133㌻~134㌻)

乙竹岩造は御木本幸吉の女婿で、東京文理大学の教授を務めた教育者だった。近世教育について数々の論考を残している。幸吉の晩年、軽井沢の別荘で談話を聞き取り、まとめ上げて成立したのが『伝記御木本幸吉』で、今も読み継がれている。

2026年6月23日

松月清郎

 

写真① 『伝記御木本幸吉』 表紙

写真② 半円真珠 貝殻についた状態 

写真③ 切り取って成形したもの

写真④ 半円真珠を中心に用いた帯留 「桜」 御木本真珠店 明治40年代

写真① 『伝記御木本幸吉』 表紙
写真① 『伝記御木本幸吉』 表紙




写真② 半円真珠 貝殻についた状態
写真② 半円真珠 貝殻についた状態




写真③ 切り取って成形したもの
写真③ 切り取って成形したもの




写真④ 半円真珠を中心に用いた帯留 「桜」  御木本真珠店 明治40年代
写真④ 半円真珠を中心に用いた帯留 「桜」  御木本真珠店 明治40年代

 
 
 

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