「尊徳と幸吉」館長のブログ199
御木本幸吉が敬愛した人物の第一に挙げられるのが二宮尊徳だ。
尊徳二宮金次郎は江戸時代後期の農政家で、主に関東各地で荒れ果てた農地を再生、地域経済を立て直した人物として知られている。勤勉のアイコンとして小学校の校庭に薪を背負った金次郎像があったのを覚えている方もいるだろう。
二宮尊徳は1787(天明7)年に生まれ、1856(安政3)年に没しているので、1858年生まれの御木本幸吉とはほぼ連続した時代を生きたことになる。
その尊徳の思想の中核には「天道」と「人道」という対立軸がある。ごくかいつまんで言うと、川は氾濫するもので、植物は繁茂するものだ。人の意を介さない自然のふるまい、これを「天道」という。また、自然には稲と雑草の区別はないので、人が稲などの作物を栽培して収穫を得ようとするなら、常に手を加えなくてはならない。人が自然に手を入れて利益を得ようとする行為を「人道」という。
家を建てるのは人が雨露をしのぐためだが、ここにも「天道」と「人道」の違いは適用される。屋根は長年葺き替えしないと腐ってしまうし、堤防も川の流れに応じて補強をしないと浸食されて弱くなる。無慈悲な自然の絶え間ない「天道」に対して、常に意識して生活を守ることが「人道」というわけだ。
真珠養殖という仕事は、本来は自然に生息する貝を採取して、その中から真珠を得れば良かったものを、より美しく大きな真珠を効率的に取ろうという思いから始まった。尊徳風にいうと貝が真珠を抱くのは「天道」であり、それをより効率化した養殖は「人道」ということになる。明治の初めまで採取一方で低かった真珠の生産性を、養殖という方法の導入は一気に高めた。海を農地と考えて、そこからどれだけの収益をあげられるかを工夫した幸吉の発想の背後には二宮尊徳の思想があるとみて良い。
御木本幸吉は二十歳の時に初めて東京に旅をした。その際に日光まで足を延ばし、今市付近で美しく整えられた田畑を見て感銘を受けた。その農民の指導に当たったのが二宮金次郎と聞かされて、すっかり傾倒。高弟・福住正兄の『二宮翁夜話』を始め、数々の著作を愛読する。そして「鳥羽で三番目の金持ちくらいではダメで、尊徳のように国のため、人のために産業を興す仕事をしたい」と志を立てた。
尊徳の説く「分度」という思想も幸吉の行動原理に組み込まれていたといえよう。真珠以外の仕事はしないという姿勢は自らの役割の領域を弁えたものと考えられる。真珠養殖こそが自分に与えられた役割という見極めは実はなかなか難しいのではないか。養殖事業の経験で鍛え上げた自信がほかの業種でも通用すると思いたいのは人情だろう。
戦争で養殖事業が継続できなくなった時、腹心の鈴木弥助が製薬業を始めたいと申し出たことがあった。幸吉は、自分は真珠一筋だから、するのなら勝手にするが良いといって鈴木の申し出に暗黙の了解を与えたという。
幸吉は無駄遣いを戒めて貯蓄を従業員に勧め、当時珍しい給料の振り込み制を導入した。これも尊徳のいう「譲道」(後日あるいは他者に譲る)の実践に他ならない。表立ってそれとはいわずに尊徳思想の実践に努めた。
あらゆるものには徳があるという考えは尊徳の思想の中核だった。徳はそれぞれに持っている能力や美点という意味で、その徳に報いるということが「報徳」である。アコヤガイの徳とは美しい真珠を作り出すことであって、その徳に報いるように人が手を加えることは報徳といえるだろう。一つ一つの貝を慈しんで、その命と引き換えに美しい真珠をこの世に残してもらおうとする行為は「報徳」の呼び名にふさわしい。
「一円融合」という考えはすべてのものは互いに働き合い、一体となって結果が出るという考えだが、養殖の場合は、海水の温度、成分、プランクトンなどいろいろな条件が関係しあって結果が出るというように置き換えられる。
こうして考えてみると、真珠養殖という仕事は尊徳思想で読み解くことができるように思える。『二宮翁夜話』を読みながら幸吉の脳裏にはいくつも仕事のヒントがひらめいたことだろう。
尊徳を敬愛するあまり、その生誕地の復興にも手を貸した。金次郎は小田原の栢山というところに生まれたが、その生家の土地が人の手に渡って耕作地となっていたのを知った幸吉は、明治42年に買い取ったうえで整備をして中央報徳会に寄贈したと伝えられる。ただ、尊徳には共鳴するが、その露払いになるのはいやだと言って、生誕地までの道標に自分の名前を刻ませなかったという逸話が残っている。
御木本幸吉は「尊徳が陸で成功されたところのものを、海で成功してみようと思っている」という言葉を残している。その理想を実現するのに、真珠養殖こそは正に天職だったといえようか。
2026年10月13日
松月清郎

尊徳の高弟だった福住正兄が教説の手控えを書き直して残した労作

入門にはまずこういった本から

尊徳の教えの実践事例として幸吉が取り上げられている

建立当時の記録写真。現在は移設されている
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