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「三崎臨海実験所」館長のブログ170

 9月中旬に神奈川県の三浦三崎を訪れた。横浜から京浜急行三崎口行の1000形赤い特急に乗車、所要時間90分は近鉄特急の名古屋から鳥羽と等しいが、知らない土地の路線は長く感じる。やがて特急が各駅停車になって三崎口。京急バスに乗り油壷で下車、目的地の臨海実験所入口まで歩く。初秋とはいえ日差しは強く、海辺に向かって下る道路に自分の影がくっきりと落ちる。以前訪れた時はこの先に京急油壷マリンパークという水族館があって、観光地らしい佇まいを見せていた。今はホテルとキャンプ場が営業中だが、平日の午後は他に人影もない。

 今回の訪問は標本作成の指導を受けることが目的だった。真珠博物館一階に展示している生物標本のいくつかが経年劣化してしまったので、近々、標本を入れ替えるに際して新しい技法を取り入れようと思い、摸索していたところ、ミキモト真珠研究所の人脈から三崎実験所で経験の豊富な技官の方を紹介され、所員共々で面会、教示いただくことにした。

 この実験所は正式には東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所といい、その歴史は明治に遡る。明治14年秋、米国と欧州の留学から帰国、東京帝国大学動物学教室の初代日本人教授に就任した箕作佳吉は、海外の経験から日本の動物学発展のために臨海実験所の必要性を痛切に感じていた。適地を探して、やがて実験に必要な海産生物の豊富な三浦半島の三崎近辺に注目する。博士の発案した建設計画は認められ、同19年に実験所が完成する運びとなった。明治23年、東京上野公園で開催された第三回内国勧業博覧会の会場で御木本幸吉が箕作佳吉と面会、会期終了後に博士の教えを受けるために訪れたのが三浦三崎の臨海実験場だった。幸吉伝記を読まれた方はご記憶だろう。博覧会は同年7月末で閉幕したので、三崎訪問は夏の盛りの頃だったか。この頃には東京―三崎間の航路が開設されていたが、魚運搬兼用の小船で何度も沈没事故があったという。

 最初の実験所は三浦半島の南端、北条湾に面した三崎町入船の海岸線に置かれた。北原白秋の詩で知られる城ヶ島は指呼の間にある。今の油壷に移転したのは明治30年。従って現在地は御木本幸吉「聖地巡礼」の、正にその場所ではない。とはいえ、箕作博士の創立の精神は記憶され、新しい実験所に脈々と生き続けている。

 記憶の部分は2020年に新しくなった教育棟の展示室に受け継がれた。「海のショーケース」と名付けられた部屋には臨海実験所創設の頃から蓄積された標本や文献、実際に使用された研究器具などが展示され、その重厚な歴史を物語っている。什器なども年代物を使っていて、昔の研究室の雰囲気を味わうことができる。その一方で現代の機器も導入、ディスプレイ上に現れる標本の拡大画像を観察することも可能で、部屋のあちこちが驚きに満ちている。規模は違うが理科室の隣にあった資料室のようで、生物に関心を持ち始めた小学生には自分の将来を決定しかねない、危うい部屋だ。

 一方、研究棟には研究室と実験室の設備が整い、海産無脊椎動物を用いて、発生生物学、細胞生物学、分子生物学、系統分類学、進化発生学など、幅広い研究活動を行っているという。若い研究者たちはそれぞれ自分の対象分野について紹介し、海外からの留学生も交えて、その和気藹々とした空気は先日終わった「らんまん」の東京大学植物学研究室の若い学徒たちの周りと同じように感じられた。

 御木本幸吉が三崎に箕作先生を訪ねた時、伝記には出ていないが、実験所には他にも若い研究者がいて、今と同じような空気の中で真珠について語り合ったのではないか。

 ところで白秋の「城ヶ島の雨」には、雨は真珠、と歌われている。向かいにあった臨海実験所を念頭においたわけではないと思うが、養殖真珠誕生のきっかけとなった場所のオマージュとしてふさわしい一節ではある。


参照:磯野直秀『三崎臨海実験所を去来した人たち』学会出版センター 1988年

   東京大学大学院理学系研究科付属臨海実験所ホームページ


松月清郎

2023年10月30



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