灼熱の夏もようやく過ぎようとしている。夜の涼しさはまたいうべきにあらず。月の頃は更なりとて、今月は月と星のお話を。
大正15年10月16日、御木本幸吉は横浜港を「大洋丸」で出航。東回りで世界一周の旅に出た。「ハツタビニ ポテトトウスト ナミノウエ」。これは出発三日目に幸吉が船上から打電した俳句という。凡人か、それとも。11月1日にサンフランシスコ到着、その後、シカゴを経て、ニューヨーク、ワシントン、フィラデルフィアに滞在、翌年昭和2年2月25日、ニューヨーク郊外ウエストオレンジでトーマス・エジソンと面会した。その時の様子が伝記に残されている。古い順番にご紹介しよう。
昭和8年『御木本幸吉苦闘傳』(昭和教育社編)の記述。 その時氏(幸吉)は先づ「貴下は星の光を地上に齎せる世界最大の天才である」と翁(エジソン)を激賞したのに対して翁は「否貴下こそは餘に優る東洋の発明家である。貴下は自然を共同労働者として、真珠の美しき光を此の世界に與へられた」と賞賛した。
幸吉はエジソンを「星の光を地上にもたらした」と讃える。いうまでもなく電灯の発明を指したものだ。それに応えてエジソンは幸吉を「真珠の美しい光をこの世に与えた」と賞賛する。確かに双方ともに今までになかった光を人々にもたらす仕事を成し遂げた。光を軸に社交上の会話としてきちんと対応している。 ところが昭和16年の北垣恭次郎『御木本幸吉翁』(明治図書)では少し様子が変わる。 さて翁(幸吉)はエジソンを訪問し、「天上の電光を地上に齎し、また音声の復活等に成功せられたる世界最大の天才的発明家の芳名を聞くこと久し。ここに拝眉の機会を得たるを喜び、甚大の敬意を表す」と挨拶すると、エジソンは喜び「自然を共同労働者として宝玉を人類に與えられたる真珠王を迎え得たるは欣快至極、謹んで満腔の敬意を表す。余は化学による真珠造成を試みて失敗せり。真珠発明の赫々たる貴下の発明は日本国旗の太陽に比すべきも、失敗した予には米国国旗の星に比すべき光もなし。」 発明王エジソンが仮に真珠造成に失敗したからといって、星に較べる光もないと卑下する必要がどこにあるだろう。幸吉の発明を日本国旗に譬え、エジソンを星条旗の星になぞらえるなど、このくだりには時代の雰囲気を反映した国威高揚の意図が濃厚に感じられる。 伝記として定本化している昭和25年発行の乙竹岩造『伝記御木本幸吉』(大日本雄弁会講談社)ではどうだろう。 (エジソンが)「私の研究所で試みて、どうしてもできなかったものが二つあります。ひとつがダイヤモンドで、今ひとつは真珠です。貴君が今、動物学上からは不可能視されていた真珠を発明完成されたことは、世界の驚異です」と誉めるので、幸吉は「イヤ貴君こそ発明界の月であられるとすれば、私は数多い星のひとつに過ぎません」と答えた。 エジソンは比較に太陽も星も持ち出していないが、なぜか幸吉が相手を発明界の(夜空に輝く)月と讃え、自らは星のひとつにすぎないと謙遜を始める。昭和8年の伝記で比喩が有効だったのは、それぞれが電灯と真珠という、異なる光を地上にもたらした繋がりがあったからだが、ここでの月と星は唐突の印象を免れない。けれどもこの応答はその後の伝記に採用され、定説化している。
北垣恭次郎の太陽と星の比喩を継承し、そこに月を加えて話をややこしくしたのが加藤龍一の『真珠王』(同書刊行会 昭和25年)だ。 「自然を共同労働者として、寶玉を人類に與えられたる真珠王をここに迎え得ましたことは、欣快至極で謹んで満腔の敬意を表します。私の研究所で試みて、どうしても出来なかったものが二つあります。ひとつはダイヤモンドで、今ひとつは真珠です。あなたが動物学上からは不可能視されていた真珠を発明完成されたことは世界の驚異で、太陽の光にも比べるべきもの、私の発明は星に比べるべき光もありません」といったので、彼(幸吉)は「イヤ、あなたこそ発明界の月であられるとすれば、私は星の一つに過ぎません」と答えた。
エジソンは、幸吉の真珠発明は「世界の驚異で、太陽の光にもたとえるべき」といい、自分は「星の光もない」と謙遜している。この背後には前述の通りそれぞれの国旗、つまり日章旗と星条旗が控えている。ここまでは北垣恭次郎の引き写し。 続く幸吉の「貴方が発明界の月で、自分は星のひとつにすぎない」というへりくだりは乙竹の伝記と共通している。伝記は昭和25年5月25日の発行で、加藤龍一の『真珠王』は同年4月25日発行。だが、乙竹は昭和23年に培風館から幸吉伝記を出しており、その中には月と星の比較が見られるので、加藤龍一は乙竹の伝記を引用したと考えられる。 昭和38年、永井龍男は『幸吉八方ころがし』(筑摩書房)でこの会見を「どの幸吉伝でも大きな見せ場になっている」と前置きして、幸吉の「あなたが発明界の月であるとするなら自分は数多い星の一つに過ぎない」というくだりを簡単に紹介し、大層芝居がかっているが、晩年、耳が聞こえず、気難しかったエジソンに会ってやろうという気になったのは幸吉の実力だったと、そちらを評価している。文学者の卓見というべきだろう。
昭和55年に源氏鶏太が著した伝記『真珠誕生』(講談社)では次のように描かれる。 「私の研究所では、ダイヤモンドと真珠だけはどうしてもできなかった。貴君は、動物学上からは不可能視されていた真珠を発明されたことは世界の驚異です。おめでとう」と讃えるエジソンに対し、幸吉は「お月さんのような立派な発明王がちいさなひとつの星に過ぎぬ私をそれほどおほめ下さるには骨が折れるでしょう。」と返す。
ここでも月と星だが、どの伝記にもなかったこの対話を源氏鶏太は何を裏付けとして書いたのか。小説家としてのサービス精神のなせる技なのだろうか。創作として読む分には機知に富む会話のようだが、将来、一人歩きする恐れなしとは言えない。 幸吉は英語を解さず、エジソンは耳が不自由。実際の対話は通訳を介して行われたはずだ。それらの逐一が文字として記録されたとは考えにくく、恣意的な要素が加わっている可能性はある。エピソードは語り継がれる際に変形を余儀なくされる。とすれば、この場合、出来事に一番近い対話が実態を伝えていると考えるのが自然なように思えるが、如何。
関連の図書類は真珠博物館図書室で閲覧できます。また、幸吉の世界一周については御木本幸吉記念館でご覧いただけます。
(2020年8月26日)
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