晴れた日、気が向けば鳥羽駅前の佐田浜にある産直の店で昼ご飯。店内にはレストランもあるが、弁当を買って屋外のウッドデッキに設えたテーブルで頂こう。岸壁越しの穏やかな海を大小の漁船や市営定期船、大型の白いフェリーボートが行き交い、澄んだ空には白い鷗。テントを軽く揺らす海風。視界の先には緑の島影と、まずは文句のない道具立てで、ふと何年も前に訪れたモナコの海洋博物館を思い出した。産直市のテラスからいきなりモナコか、と訝しく思うかも知れないが、これは「紅茶に浸したマドレーヌ」。昔を思う縁(よすが)というわけです。遠出のできない昨今、楽しかった日々を追想してセロトニンを増やそう。
モナコ海洋博物館で「海の宝石」と題する展覧会が開催されたのは2000年のこと。日本で水産学を学んだ海洋博物館副館長フランソワ・シマール氏から要請があり、当館の収蔵品を多数貸し出すことになった。珊瑚、鼈甲、宝貝やアワビ、鮫の皮などを用いた装身具を集めたもので、真珠の資料の多くを当館が提供する。その関連行事として講演会が予定され、ゲスト講師の一人として招待を受けた。
6月21日、関空からアムステルダムを経由、フォッカーの小さな機体でニース・コートダジュール空港に到着。一夜をニースのホテルで過ごし、翌日、シマール氏のルノー・メガーヌでコルニッシュ街道のビーチ寄りを走ってモナコに入る。地中海の断崖に白亜の威容を誇る海洋博物館は1899年に着工し、10年以上の歳月をかけて完成した。ナポリに次ぐ世界で二番目に古い水族館を擁し、海洋学者であったモナコ大公アルベール一世殿下のコレクションで知られる、マニアの聖地だ。
博物館の屋上テラスで歓迎の昼食。鳥羽の産直で思い出したのはこの時の気分だった。実際、モナコ博物館の屋上は60メートル以上の高さだが、空と海の織り成す景色はどこでも大体同じような良い気持ちにさせてくれる。キノコのフェットチーネと牛肉のカルパッチョに山盛りのポテトをナストロ・アズーロという軽いビールで流し込む。このテラスは来客も館のスタッフも共用で、ラフな姿のギャルソンがきびきびと動く。移動日を除くとモナコには1週間逗留。要務としての講演会は日曜と火曜日のそれぞれ一回。何とも優雅な滞在だ。
さすがにモナコでホテル連泊は負担が大きいので、モネゲッティ地区にある博物館のアトリエを使わせてもらうことになった。モネゲッティはモナコの北側の高台で、博物館は南の海辺のこれも高台にあるから通勤は結構な運動だ。その晩は途中の市街地にあるスーパーで買ったパンとサーモン。夜鶯の不気味な鳴き声に何度も眠りを破られる。翌朝は丘を海岸まで下り、また丘を登って出勤、図書室で真珠関連の文献を閲覧する。午後は学芸員たちと企画展示の検分や収蔵庫の見学。圧倒的な数の生物標本に比べて真珠資料は少なく、有名なメゾンの箱にはなぜか模造真珠。
その次の日は国鉄に乗ってモナコの東隣のマントンという町に遠征。レモンの産地として知られ、ジャン・コクトーの美術館があるが、あろうことか週末は休みなのだった。海岸のパラソルの下には新聞に目を落とす老婦人。そうそう、西隣のニースにも国鉄で出かけた。シャガールの美術館も一応訪ねたが、目的はプロヴァンス鉄道。
ニースからディーニュ=レ=バン間160キロを結ぶ非電化路線で、片道3時間の直通は一日4本だけ。午後に乗れば帰りが危うい。涙を呑んで途中の駅で折り返したが、その先は山あり谷ありのスリリングな路線が待っていたはずだ。アルプ・アジュールという年代物の流線形車両も現役で動いていたが、今も存命だろうか。
自動人形を集めたひと気のない古いモナコ国立博物館。丹下健三のデザインによるニースのアジア美術館、エスニックのジュエリー・コレクションを見せてもらったマセナ美術館など、どこにいっても博物館巡りだ。結局、華やかなモンテカルロ地区に近づくことはなかったが、これも身の丈に合った過ごし方。
ところで肝心の講演だが、一回目は土曜日で10人ほどの入り。火曜日の二回目は数人に留まり、こちらのせいではないと思うが、面目ないことだった。それも今は時の彼方。
(2020年8月1日)
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