貝マークの話を続けよう。日本の伝統的な家紋に貝をモチーフにしたものがいくつかある。まず、サザエの「栄螺紋」(写真①)。ものものしい棘を持つ巻貝の貝殻を描いたもので、実際に突起のあるサザエがモデルにしても危険過ぎるが、威力を感じさせるにはふさわしいデザイン。イタヤガイは蝶番を上に置き、栄螺同様に表面の突起が威嚇的で兜を思わせる(写真②)。武家の好みに合うデザインだったか。「一つ貝」から「五つ貝」までバリエーションがある。ハマグリは貝合わせに使われ、夫婦和合のシンボルともされてきたからか、穏やかな印象。どこかお多福を思わせる「三盛蛤」(写真③)、開いた貝殻を蝶の羽根に見立てた「蛤蝶」、ネックレスのように繋いだ「つなぎ蛤」などがある。 御木本家の家紋がいずれかであれば申し分ないところだが、残念ながらそうではない。一の字をモチーフにした「丸に一の角字」で、一見すると「己」という字のようだ(写真④)。青年時代の幸吉はこの紋を使っていたが、養殖真珠の成功以後は珠の字を丸で囲んだ紋を用いた。
さて、昭和12年に貞明皇后が鳥羽の真珠島を訪れることになった。お迎えする幸吉は紋付羽織袴の礼装を準備しなければならない。ところが本人は「うどん屋風情に家紋などあるものか」と涼しい顔をしていた。実際、それまで多くの宮様方をお迎えしたが、残っている写真を見ても幸吉の羽織に紋はない。そのことを耳にされた貞明皇后は「側近に向われて、御木本のじいさんのために、何かふさわしい紋を考えるようにとおっしゃった。そこで色々工夫された結果、やはり真珠に因むものがよかろうということで、波の中に真珠をあしらった図案が考えられた。御木本翁はその紋をたいへん喜んで、さっそくそれを御木本家の家紋と定めた」(『貞明皇后』主婦の友社 昭和41年)とある。実際は時の宮内大臣松平恒雄から礼装用紋付に五つ紋を使用するよう事前に注意があり、千鳥波の中央に真珠貝をあしらった紋章が選ばれた(写真⑤)。貞明皇后は漫画『昭和天皇物語』ではずいぶん厳しいお方のように描かれているが、幸吉翁に対しては親しみを抱かれていたと伝わる。
この家紋拝領の経緯を記した松平恒雄の文を幸吉は石碑に刻し、渋沢翁の「千秋放光」の碑と並べて建立した。「波に真珠貝」は幸吉一代の紋章として扱うことになり、その後は御木本各社の社章として使われている。現在、従業員が着用する徽章はこのデザインをもとにしたもの(写真⑥)。
家紋の「丸に一の角字」に代わって使っていた、篆書体の珠の字を丸で囲った紋(写真⑦)は賞勲局総裁だった大給恒(おぎゅう・ゆずる)が明治39年、幸吉に授けた印で、こちらも由緒がある。大給は職務を全うするために人との交際を避けたという厳格な性格だったが、なぜか幸吉の人柄を愛して事業に激励を与えた。この紋は養殖場の旗や幔幕などに広く使われ、貝Mが都会的でインターナショナルなら丸珠はドメスチックな事業体としての御木本真珠のマークという位置付けだったか。志摩や鳥羽の屋敷の軒瓦、室内の夏障子の透かしには太い目の書体で珠の字が表される(写真⑧)。
貝の輪郭は花押にも使われた。揮毫を所望されると筆を執り、座右の銘である「智運命」をしたため、署名のあと落款印の代わりに貝を模した書き判を記した。輪郭の中心に真珠の丸が描かれて、アコヤガイを良く知る人ならではのかたちだ。(写真⑨)。
貝の輪郭と中央の丸い真珠はお気に入りだったらしく、携帯用筆記具として愛用した矢立の管尻には印鑑を彫らせている(写真⑩)。心底、真珠貝に惚れ込んでいたことの証といえよう。
(2021年10月29日)
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