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参宮線 館長ブログ154

 普段利用しないので気が付かなかったのだが、JR参宮線の鳥羽駅は無人になってしまった。2020年3月の事というからもはや旧聞に属する。



鳥羽駅の現在(外観と改札口)

 今は鳥羽志摩への輸送の主導権は近鉄に移り、JRの依存度は低下しているので、この情勢下、不採算駅の無人化はやむを得ない措置だったのだろうが、寂しいことだ。  鳥羽に通勤を始めたのが昭和50年代。万博の開催された昭和45年に近鉄線が宇治山田から延伸したが、伊勢方面からの従業員の多くは当時の国鉄を利用していたようだ。たぶん運賃が安く、会社の規定でそうなっていたのだろう。すでに蒸気機関車の運行はなく、車両はディーゼルのキハ58だった。向かい合わせの座席で、通勤の車窓にもちょっとした旅行気分が味わえた。  明治30年に山田(伊勢市)駅まで伸びていた参宮鉄道は40年に国有化、44年には山田から鳥羽間が開通した。地元産業人のひとりとして、御木本幸吉は政治家とともに鉄道事業促進の動きに共鳴し、用地買収のあっせんなど積極的に協力した。その際、自分自身は土地を買わぬことを宣言、あらぬ嫌疑をかけられないように配慮したという。7月21日、開通祝賀会の開催。このときには幸吉は相島(真珠島)を会場として提供、駅前附近から仮橋をかけたことは№139「パールブリッジ」で紹介した通り。  今は精彩を欠くJR鳥羽駅だが、国鉄時代には東京と結ぶ夜行列車の発着駅だった。御木本真珠店の店員たちも東京本店と鳥羽の工場、志摩の養殖場の往還に国鉄を利用したので、鳥羽駅は名実共に志摩への玄関口として賑わった。

鳥羽駅前。昭和9年頃か

鳥羽駅にあった転車台

プラットホームに旅装の幸吉

 東京からの志摩行きは夜行を利用すれば車中二泊で中日を使える出張が可能だった。昭和9年12月の時刻表を見よう。東京駅を夜の10時30分に出発する鳥羽行き241列車に乗る。名古屋、亀山を経由して鳥羽に翌朝9時30分到着。そこで志摩電鉄に乗り換え。9時47分の鳥羽発を利用して鵜方到着10時33分。鵜方の浜から迎えの船で11時には多徳養殖場に着く。ここで仕事を片付け、午後5時03分、鵜方から志摩電に乗って鳥羽に5時57分。駅前の食堂で軽く腹ごしらえをして、鳥羽発6時48分の242列車に乗れば翌朝6時25分には東京に到着する。小休止をして銀座の店に出勤すると、不在は一日だけとなり、業務への支障は最小限で済む。弾丸出張だ。  車内を社交の場と心得ていた幸吉が上京する際は日中の列車を利用した。鳥羽を12時45分に出発。名古屋で午後3時43分発の特急「燕」に乗車する。夜9時に東京に着くまでの約5時間、幸吉は車中に重要人物を見つけ出し、話しかけたという。 「三等の赤切符から、二等の青切符を飛び越えて、白切符の一等に乗って見ると、世間に知られた人の顔が、必ず幾つか見つかる。外国人も乗っている。東海道を上下する、あくび話の合い間合い間に、うまい商談も持ち込まれることがあるし、思いもよらぬ儲け仕事が、向こうから転げ込むこともある。世の中はおもしろいものだ。こんなことなら、もっと早く白切符にすればよかった」と述懐するとおりだ。(永井龍男『幸吉八方ころがし』)  実際、御木本真珠店では要人の乗車情報を事前に把握し、それに合わせて幸吉が乗り込むこともあったようだ。東京―神戸間を9時間で走る特急「燕」の運行開始は昭和5年10月。下りは朝9時00分に東京駅を発車し、途中、横浜、国府津に停車後は名古屋までノンストップで疾走する。その間、幸吉は巧みな話術で相手を虜にしたのだろう。  鳥羽駅の開業は明治44(1911)年。今年の7月21日が111年目の記念日となるのに、お祝い行事の計画などないのだろうか。参宮線がこのまま衰退して行くのを見るのは忍びない。節目の機会に臨時列車を運行、沿線風景を楽しみ、存続の意義を再認識する企画は如何。

ディーゼル機関車DD51形

 名古屋駅からディーゼル機関車DD51が牽引する客車で鳥羽までの旅を計画しよう。ヘッドマークは「はまゆう」か。途中、亀山で方向転換する際には機関車の付け替えを見学。昼は地元の駅弁を調達し、お茶は土瓶で伊勢茶を用意。おやつは沿線に数知れず。流れる踏切の音、ディーゼルエンジンの唸り、線路の継ぎ目が奏でるリズム、排気の匂いなど、開いた車窓に五感を刺激する楽しみが溢れる。  ディーゼル機関車が希少となった現在、マニアならずとも乗ってみたい気になるのでは。JR東海さん、考えて頂けませんか。

(2022年6月27日)

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