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「自由の鐘、大阪関西万博へ」館長のブログ186

  • 執筆者の写真: Blue East
    Blue East
  • 6月15日
  • 読了時間: 5分

 7月24日から大阪関西万博の三重県ブースで「自由の鐘」が出品展示される。御木本真珠店が1939年のニューヨーク万国博覧会に出品した美術工芸品だ。この機会に改めてその来歴を見ておこう。写真①

 ニューヨーク万国博覧会はアメリカ初代大統領ジョージ・ワシントンの就任150年を記念して「明日の世界」をテーマに1939年から40年にかけて同地で開催された。会場では三角の尖塔トライロンとペリスフィアなる巨大な球形が注目を集め、ナイロン、プラスチックなど新素材が話題になったという。会期中の入場者は4500万人で1900年のパリ万博を上回る成功を収めた。しかし明るい未来を謳うテーマとは裏腹に同年9月にドイツ軍がポーランドに侵攻、第二次世界大戦が始まり、世界は再び暗い時代に突入しようとしていた。

 「日米親善民間外交のバトンを澁澤栄一から受け取った」と自負する御木本幸吉は悪化する日米の関係を民間の努力で少しでも改善の方向に導こうとこの博覧会に参加を決定した。そのモニュメントとして選んだのがアメリカ独立の象徴といえる「自由の鐘」だった。

この鐘は1776年にフィラデルフィアで独立宣言が行われた時を最初として、毎年の重要な行事の際に打ち鳴らされ、当初は「独立の鐘」と呼ばれていた。その後、1839年、奴隷制度反対運動を機に「自由の鐘」と呼ばれるようになった。写真②

 大正14年の秋から翌年の夏まで世界一周の旅に出かけた御木本幸吉は、その途上、フィラデルフィアで開催中の万国博覧会を見学する。御木本真珠店はこの博覧会のブースに「五重の塔」を出品展示していて、その反響視察を兼ねての訪問だった。博覧会会場の入口ゲートには「自由の鐘」の巨大なオブジェがあって、夜間には本体に付けられた無数の電球が点灯し、鐘全体が光輝く仕掛けが施されていた。写真③

 この時、博覧会場の出品担当として派遣され、毎日このゲートのオブジェを見ていた加藤虎之助は、電球の代わりに真珠を用いた工芸品制作のアイディアを思いつく。加藤は実物の「自由の鐘」が展示してある独立記念館を訪れ、詳細な資料を入手、準備を重ねて、ニューヨーク博覧会の展示品として提案、制作に漕ぎつけた。御木本幸吉も実際に博覧会場で鐘のオブジェが輝く様子を見たはずだから、加藤の着想に大きく頷いたはずだ。

 工芸品は昭和13年11月上旬に制作が決定。実物の十分の一の大きさで「平和の鐘」と命名された。御木本真珠店の図案係主任だった小竹幸作が指揮を執って、富山県高岡市の富山県立工業試験所で漆と貝細工を駆使した台座の制作が進められた。アメリカ国旗に因んで紅白のストライプに星型の白蝶貝を48枚貼り付け、これは当時の州の数を表わしている。同試験所主任技師で制作責任者の彼谷芳水は、後に人間国宝となる漆工芸の第一人者である。厳冬の中、昼夜となく働き、精一杯の仕事をした、特に鐘を支える木部の古びた感じを出すのに苦労したと述懐している。銀製の鐘本体は東京下谷の銀打ち出し職人黒川義勝の工房で作られた。鐘の周囲に付けられた真珠は針金を通してネックレス状にした後、表面に刻んだ条線に沿って一列ごとに巻き付ける手法で固定している。実際の鐘は、鋳造技術が低かったのか、正面に亀裂の入った状態で現在も保存されているが、これがこの鐘の特徴ともいえるため、青い真珠を用いて一本のひび割れを表現した。鐘の銘として記された文言は上段にPROCLAIM LIBERTY THROUGHOUT ALL THE LAND UNTO ALL THE

INHABITANTS THEREOF LEV. XXV/X

「全ての人と国に自由をのべ伝える レビ記25/10」

 中段にBY ORDER OF THE ASSEMBLY OF THE PROVINCE FOR THE STATE HOUSE IN PHILADA.

「ペンシルベニア州議会の命によりフィラデルフィア市議事堂へ」

 下段にPASS AND STOW PHILADA.MDCCLIII

「パス並びにストウ フィラデルフィア 1753年」(パスとストウは鋳造者の名)

とあり、いずれもプラチナの枠内に上中二段は小粒真珠で、下段は小粒のダイヤモンドを用いて表されている。使われた真珠は12250個、ダイヤモンド366個を数える。博覧会の日本館では「百万ドルの鐘」として第一番の呼び物となり、名誉大賞牌を得た。写真④

 ニューヨーク博覧会終了後に日米関係は悪化の一途をたどった。戦争を回避するため最後の調停役として渡米した野村吉三郎駐米大使は、出発前に御木本を訪ねている。野村が大使となったのは昭和15年11月。その翌月に伊勢神宮を参拝して郷里の和歌山に帰り、翌1月23日にアメリカに向けて横浜を出航しているので多徳養殖場を訪問したのは神宮参拝の前後だっただろう。幸吉は日米交渉に臨む野村大使を激励し、もしこの鐘で戦争を回避できるのなら役立てたいといって、寄贈の意志をあらわしたという。写真⑤

 「自由の鐘」は戦争中に一度解体されるが、昭和23年にふたたび元の姿に戻り、昭和34年に御木本真珠店がニューヨーク高島屋に小売店を開いた時と、平成7年にニューヨーク店の新装披露の際に展示された。今回、こうして86年ぶりに万博に展示の機会を得て、平和のメッセージを広く内外に伝える役割を担うことになる。

2025年6月15日 松月清郎


写真

①「自由の鐘」全体

② 独立記念館内の「自由の鐘」

③ フィラデルフィア博覧会会場のオブジェ

④ 1939年の雑誌に掲載された記事

⑤ 御木本幸吉とアメリカ軍リッジウェー将軍(1951年)


①「自由の鐘」全体
①「自由の鐘」全体
②独立記念館内の「自由の鐘」
②独立記念館内の「自由の鐘」
③フィラデルフィア博覧会会場のオブジェ
③フィラデルフィア博覧会会場のオブジェ
④1939年の雑誌に掲載された記事
④1939年の雑誌に掲載された記事
⑤御木本幸吉とアメリカ軍リッジウェー将軍(1951年)
⑤御木本幸吉とアメリカ軍リッジウェー将軍(1951年)

 
 
 

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