同じ伊勢市に住んでゐる人でも、多くは氣づかないでゐるかも知れません。御幸道路が倉田山から楠部の坂を下ろうとする、倭姫宮のはす向かいに、丁度将棋の駒の様な、小さな一基の石碑が立ってゐるのです。皇學館大学の黒門をくぐる学生が時おり視線を向ける位で、殆ど顧みる者もありません。
江戸川乱歩の「パノラマ島奇談」を真似てみた。呵々。お粗末さま。この石碑は「国道風致樹木碑」という。6月に伊勢市が説明板を設置したので、ご紹介しよう。
表面の刻字は晒されて遠目には少々分かりにくいが、縦書きで「国道風致樹木 寄付者 御木本幸吉」と読める。裏の状態は良く「明治四拾貮年九月立建之」と刻されている。
記念碑は御木本幸吉が景観美化のため道路の両側に樹木を寄贈したことを伝えている。碑の前の道路は「御幸(みゆき)道路」という。皇族が参拝することを想定しての名称だ。今は県道37号となっているが、明治43(1910)年3月に開通した当時は国道9号線に数えられていた。
明治5年、御師制度が廃止され、神宮の改革が行われた。その結果、荒廃してしまった神宮神苑の清浄を取戻し、景観の整備を図る目的で、古市の備前屋・太田小三郎が中心となって結成したのが神苑会という団体だった。その活動は全国的な広がりを見せ、神苑整備の次の事業として博物館の設立を目標に掲げた。明治23年には歴史博物館構想の一環として農業館を開設、この時、設立委員長を務めたのが田中芳男だった。NHKの「らんまん」でいとうせいこうが演じた物産学者だ。適役だったな。
倉田山に徴古館が開館したのは明治42(1909)年9月のこと。10月1日に一般観覧が始まり、初日の観覧者は16,000人の盛況だったという。こののち、徴古館農業館の事業は神宮が引き継ぐことになる。
大正7(1918)年に道路法が公布され、国家神道の高まりにより、東京―伊勢神宮間は大正国道の1号線となった。戦後、昭和27(1952)年に国道23号線となり、現在に至っている。
御木本幸吉は明治40年、御幸道路起工の際、この道路の両側にサクラとカエデを、また切通しの斜面にはツツジとハギを植栽、その経費と今後の維持費を寄付することを当局に申し出た。県はこれを許可し、樹木維持資金は特別会計規定を設けて利殖を計り、その利子で改善維持に充てることとした、と記録にある。幸吉の寄付金は6,000円。それを基金として事業を行った。
このことは『宇治山田市史』に記されており、館蔵の新聞スクラップ中、明治42年1月17日付の「国民新聞」にも幸吉が樹木を寄附したという記事がある。桜と楓はそれぞれ五間(9メートル)間隔で植栽したという。
ちなみに、この当時の大卒初任給が35円。現在の21万円と比較して計算すると幸吉の寄付金6,000円は3,600万円ほどになる。碑陰の日付明治42年9月は徴古館が開館した月だが、この記念碑を誰が建立したものかは記されていない。
この碑から内宮寄りに行ったところに、神苑会を提唱した太田小三郎と、活動を支えた大岩芳逸の顕彰碑がある。こちらは一帯が整備され、説明板も何年か前に設置されていたが、どういうものか御木本幸吉の事績に関する石碑は先送りされてきた。この度の説明板設置を喜ぶとともに、実現に至る過程で尽力された方々にお礼を申し述べたい。
春のサクラ、初夏のツツジと青モミジ、初秋のハギに晩秋の紅葉、と四季を通じて御幸道路は美しい姿を見せてくれるが、昭和40年代までは道路斜面のツツジが鮮やかに咲いていた記憶がある。近年その彩りはない。サクラも数が少なくなった。記念碑が意図するところを再考する、良い機会ではないか。
国道風致樹木碑と説明板
松月清郎
2023年9月9日
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