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「やちまた」とモンブラン 館長ブログ159

 夏の初めに南伊勢町の川口祐二さんから『村翁閑話』が届いた。川口さんは南勢町(当時)の役場を退職後、日本各地の漁村を訪ね歩いて人びとの話を聞き取り、文字として定着された記録文学者で、御年90歳の今年、三重県文化賞文化大賞を学術分野で受賞された。単著だけでも30冊以上があり、そのほとんどを博物館に寄贈いただいている。

 最新刊の副題は「人との縁、本との出会い」。本を通じて出会った人との交流を綴った短い文章が21編、いずれも滋味深く、川口さんの人柄が滲み出るエッセイ集である。

 その中のエピソード。作家の足立巻一が近鉄提供のテレビ番組「真珠の小箱」の取材で南勢町に来た時、川口さんは足立の著書『やちまた』上下二巻を持って面会にいった。作家はそれをたいへん喜んだ。共通の先生から教えを受けた思い出を語ると初対面なのに話が弾み、それから交流が続くことになった。

 川口さんは『やちまた』を「足立さんの力作で、三〇年にも及ぶ調査、研究に基づいて、本居宣長の息子の春庭の生涯が記述されている。それに重なるように、戦時下と戦後間もなくの学生時代のことが挿入されていて変化に富む。」と紹介されている。本居春庭は『詞の八衢(やちまた)』という文法の書物を著した江戸後期の国文学者だ。

 『やちまた』という表題は記憶しているが手に取ったことはない。さっそく古書サイトで見つけて注文、届いた二冊本は昭和49年の初版だったが、経年変化以上に焼けてやつれた姿で、それは仕方がないとしても赤線の書き込みが多い。それに上下二巻各440ページは重いので、中公文庫の新本を改めて注文、こちらで読むことにした。

 川口さんの紹介の通り、神宮皇學館(現・皇學館大学)に学んでいた若き日の足立巻一が本居春庭に関心を抱いて研究にのめりこんでゆく姿が、戦前と戦後の宇治山田(伊勢)と松阪を舞台に展開する。皇學館の学生が寄宿舎のある倉田山から市内の歓楽街に行き、映画を見てカフェで放歌高吟する。伊勢に住いする者として、戦前の繁栄が既視感を伴って幻のように浮かんでくる。昭和末期には本に登場する同名の映画館もまだ営業していたので一層親近感が湧く。

 本居宣長が学問上の後継と密かに期待しただろう春庭は寛政3年29歳の春頃に眼病を発し、視力が低下する。本人はもとより、宣長にとっても憂慮すべき事態だ。足立巻一の描く宣長は、良く知られた肖像画から受ける静謐な印象とは異なり、子を思う情愛に満ちている。自身が医者でもあったからもどかしい思いで一杯だっただろう。目薬を調合し、各地の著名な眼医者を探し、当時評判の高かった尾張の明眼院に送り出して治療に専念させるが、結果は望ましいものではなかった。ついに失明した春庭はそれから生活のために鍼を学ぶが、40歳頃から講義や和歌の指導に専念、筆記は妻と妹が手になって継続する。それだけでも大変な話だが、独自の研究として動詞活用や係り結びの法則性を解き明かし、国文学の上での業績を成し遂げた。その一生に魅了された足立巻一による春庭研究と春庭自身の日本語研究が織り合わされて複合的に小説は展開する。

 国文法についての解説は正直難しいが、足立の学友や指導する皇學館の教授との対話の部分は魅力的だ。どれも実名ではないようなので見当を付けて検索、足立を指導した伊藤正雄教授の『忘れ得ぬ国文学者たち』という随筆集を手に入れた。一読、洒脱な味わいで、中で紹介されている谷崎潤一郎の「大阪及び大阪人」を読もうと昭和11年刊行の随筆集『鶉鷸隴雑纂』(じゅんいつろうざっさん)も入手。谷崎の文章は旧仮名使いでないと。

 『やちまた』のエピローグは昭和40年代で、本居宣長記念館開館後の文献調査研究まで収められている。その松阪を舞台とする場面で紹介されたのが松阪市長を務めた梅川文男の『やっぱり風は吹くほうがいい』という遺作集で、こちらも呼び寄せることになった。こういうことが可能なのも古本屋の横断検索サイト『日本の古本屋』のせいというか、おかげというか。こんな芸当はリアル書店だけの時代では不可能だった。

 中盤、宣長を敬慕する平田篤胤が登場する場面で足立は島崎藤村の『夜明け前』を取り上げる。主人公の青山半蔵は中仙道馬籠宿の庄屋で、その交際する人々の間に平田篤胤の思想が広がっていたことを知り、同時に明治維新の具体的な姿が鮮明になったと足立は記す。こちらも未読でこの機会に読みたくなってくる。『夜明け前』の文庫本は一部二部各上下の4冊、これは市内の書店で入手。江戸から明治に至る体制の変化で民衆が直面した困惑と失った数々を思い知らされる。

 第一部の下巻を読む頃には秋風が立ち始め、栗の季節を迎えた。栗の名産地は諸国に数々あれど中部圏では恵那か中津川。というわけで中仙道の宿場町中津川へ栗と蕎麦を味わいに特急「しなの」で。

 これらすべて川口さんからいただいた本から出発した。読書と旅は連鎖する。

1.始まりは川口祐二『村翁閑話』 (ドメス出版 令和4年)

2.続けて足立巻一『やちまた』 (河出書房新社 昭和49年)

3.それから島崎藤村『夜明け前』 (新潮文庫 令和3年)

4.そして中津川で。黄金の絹をまとったモンブランの美味


(2022年11月28日)

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