今年の恵方は南南東。住まいからその方角の延長線上で寺社を探すと、志摩市の御座に爪切不動尊がある。これはご縁と初詣に出た。志摩の南端。英虞湾を抱く形に西へ延びる前島半島の国道260号線を進むと御座港の手前左に参道がある。木立の中を登れば広場で、そこに由緒ありげな石柱。金毘羅山道路改修記念碑とある。側面を見ると御木本幸吉の名前が刻まれている。裏面は摩耗し、朝日の逆光状態で読み取れないが、ここもまた真珠王のテリトリーだったことを示している。「宮川以南は俺の受け持ち」の面目躍如だ。『志摩町史』には大正中頃、御木本幸吉が宮の前から不動堂に通ずる車道を寄進した、とあるが位置関係がよくわからない。その記念か、あるいは別件かも知れない。
石柱の指し示す金毘羅山は後程として、まず爪切不動尊にお参り。爪切といってもネイル・クリッパーではない。弘法大師空海が自らの爪で刻んだ不動明王像が祀られている故の命名である。延暦年間、この地を巡錫した大師が百日の護摩供養を行い、満願の日に石の表に明王像を刻したという。その秘仏の鎮座する不動堂へは広場から石段を下って参る。普通、寺社へは坂を上って行くものだが、この不動尊は谷の底。木々が葉を落とした今の季節でも岩に囲まれた一帯は日陰となって幽邃の気配が漂う。他に参詣の人影はなく、奉仕の方々が参道の落ち葉を集めて焚く、その煙が谷あいから立ち上る。この不動尊は近郷近在に広く信仰を集めており、ご縁日には多くの参詣で賑わうことだろう。大師堂と薬師堂にお参りして、広場の稲荷社にも手を合わせ、これより金毘羅道に向かう。ちなみに御木本幸吉は信心深く、朝熊山金剛証寺の本尊虚空蔵菩薩に85歳までの長寿を願い、その年に達すると今度は爪切不動尊に数年の延命を祈ったという。
名前の入った石柱前の道を進み、旅館見晴屋の角を左折すると山道にかかる。次第に傾斜を増す道を行く事20分、右手に階段が現れ、その先が金毘羅山の展望台。
明治の小説家田山花袋は「志摩めぐり」のなかでここからの風景を絶賛している。「見よ、わが右にひろがりたる大海は、今しも美しき夕照の光を帯びて、一波ごとに、皆金色の色彩を帯びたるにあらずや。否、その夕照の金色の波の中を帰り来れる白帆の影は、皆閃々とかがやき渡りて見ゆるにあらずや。見よ、更に首を回して見よ、近くは麦崎の一角より、遠きは大王の岬頭に至るまで、半日わか過ぎて来りたる海岸は、恰も弓弦を張りたる如く、渺々と名残なくわが脚下に顕れて見ゆるにあらずや。」(田山花袋『南船北馬』明治32年 所収) そして左の入江から鵜方、朝熊を遠望し、松林の外れから御座の湾を一目見て「われを忘れて、手を拍ちて、快哉を叫びつ。あヽ我は決して此一嘱を忘るヽ事能はさるべし」と感嘆、陸前松島にも劣らぬ風景がこのような土地に埋もれていることの不思議に打たれるのだった。
訪れたのは正午前だったので花袋が絶賛したような金色の饗宴ではなかったが、展望台からは360度、全方位遮るものなく見渡せて確かに絶景に違いない。標高は100メートルほど。周囲の緑はそのまま海に溶け込んでゆく。御木本幸吉は金毘羅山の整備にも力を注いだが、山の健全な姿が海の豊穣につながることを察知していたからだろう。
『志摩町史』には古来古墳のあった場所と記されていて、「もと四尺四方ほどの大板石五個をもって四周を囲み、別に一枚石をもって上面を覆い、その中に鏡一面、その他刀剣を納めてあった」由。また、「弘法大師が百日の供養をされて、この村の流行病を治癒した跡」とも伝えられる。展望台の一角には吉野秀雄の歌碑があり、ベンチも備えられている。先志摩の眺望を密かに楽しむには最適の場所といえよう。これにてご利益万々。
(2021年1月27日)
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