前々回、宇和島の穂積橋のところで「老生は銅像にて仰ぎ観られるより履んで渡られるが無上の光栄」という、穂積陳重の言葉を引用した。真珠島の広場にある御木本幸吉像は4メートルに近く、仰ぎ見る高さだが、この像が完成した時に穂積陳重はすでになく、幸吉にしてみればちょっと気分は楽だったかも知れない。実際、本人は周囲から銅像建立の話が出るたびに嫌だと固辞し続けてきたが、海女さんたちや小学生の拠金をもとにして作るということになれば、それはそれで嬉しかったはず。
一方、「上から目線」で眺めることのできる幸吉像もあるのでご紹介しよう。
まず、高さ30センチの全身像。これは1953(昭和28)年11月25日に除幕された御木本幸吉像に先立って作られた同じデザインの小像。作者は長崎県出身の北村西望。「長崎平和祈念像」で知られる著名な彫刻家で、平和、自由、宗教を題材とした作品を多く制作した。島の広場に建てられた像と違うところは表面の表現で、小さい分だけ、凹凸を出して立体感を強調している。台座に「1952 6 西望」とあり、記念の品として作られたものと思われ、複数体が関連会社に伝わっている。
同様に屋外彫刻の縮小版として作られたのが高さ23センチの胸像。作者は横江嘉純といい、富山県の人。志摩に残る幸吉の屋敷の庭に胸像が置かれており、これはそのミニチュア。背面に昭和二十六年十月嘉純、〇に陽のサインがある。横江嘉純は塑像を得意とし、木彫、大理石像、洋画も遺した作家で、制作の進捗を幸吉に知らせた葉書が多数残っている。この像の表情は老練、諧謔、慧眼、闊達などといった言葉で表せるだろうか。北村西望の堂々とした偉人像とは違った複雑な内面を見せている。
同じ胸像でもこちらは実直な雰囲気を漂わせる。台座の付いた40センチのブロンズで、作者は北地莞爾。三重県の出身で、四日市市博物館にこの作者の丹羽文雄像が所蔵されている。また、三重県出身の作家田村泰次郎像も制作しており、地元にゆかりのある彫刻家だったようだ。背面に御木本幸吉翁 莞爾作の刻字がある。
次は木彫に着彩を施こした高さ17センチの全身像。底面に白龍試作の刻字があり、板倉白龍のものと推定される。伊勢市にある神宮徴古館所蔵の倭姫命像や同じ伊勢市の二見浦にある賓日館階段親柱の蛙などで地元では馴染みの深い彫刻家。試作とあるが、実制作されたかどうか不明。二本の杖を突き、飄々とした姿で表される。木製箱入り。
さて最後は高さ34センチの陶土着彩による全身像。底にラベルが2枚貼られていてひとつはSATO HAKATA DOLL CO.HAKATA JAPAN。もうひとつがMADE IN JAPAN Washable PATENTとあり、いわゆる博多人形である。これは他の4体とは異なり、商品として作られたのだろう。インバネスを羽織った姿はお馴染みだが、口をへの字に結び、眉間を顰めた顔の表情はやや違和感がある。木製の杖の手元に真珠の房飾りがあり、これがオリジナル仕様なら結構こだわった作品だ。どれだけの数が作られ、そして売れたのか。パール・キングの像として外国向けを狙ったものか。商品とはいえ、珍しいものだと思うが、どういう評価をすれば良いか、悩ましい。
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