パールブリッジから見える鳥羽湾の風景が春の光に明るく映える。左側に坂手島と答志島、右は安楽島より鳥羽水族館の屋上越しに鳥羽城跡を望む景色は橋上からでなくては味わえない眺めといえよう。
パールブリッジは1970(昭和50)年7月11日に渡り初めを行って、真珠島に新しい時代をもたらした。それまでは対岸の岩崎桟橋と島の間を「真珠号」という渡し船が運行していたが、近鉄志摩線の開通や護岸の整備、そしてなによりも来場者の利便を図り、その増加に対応するため計画され、7か月の工期をかけて完成。大阪万博の年で海外からも来客が急増し、年間百万人の入場者を数える飛躍の時代はここから始まったといえる。全長62.84メートル。満潮時の海面から6.3メートルの高さで、桁のない「フィーレンディール」という形式による。当時、隅田川支流の日本橋川に架かる豊海橋に次ぐ二例目の施工といわれたが、風雨をしのげる箱型の歩道橋、しかも海を跨ぐ形状は唯一ではないだろうか。
島に橋が架かったのは、実はこれが初めてではない。1936(昭和11)年11月16日に御木本幸吉はこの島内で真珠貝の供養祭を行ったが、その際に仮橋を設けたことがある。それは真珠養殖で犠牲となったアコヤガイの霊を慰めるための法要で、会場に150万個の貝殻を高さ5メートルに積み上げ、京都知恩院から二十数名の僧侶を招いて執り行われた。海女さん達をはじめとする参加者は仮橋を渡り、祭場に参列、その数一万人に及んだというから凄い。仮橋は真珠養殖に使うタンポ(浮樽)を並べて上に板を敷いたもので、総延長は180メートルだったと記録にある。この時の様子は映像化されていて、祭壇の幸吉翁が手振り身振りを交えて演説している様子を見ることができる。
その翌12年6月12日は貞明皇后を島にお迎えすることになり、同様に仮橋を設置した。雨のなか、傘もささずに先導する幸吉の姿が写真に残っている。この行啓を記念して翌日から三日間、島は一般開放され、3万5千人もの見学者で賑わったという。仮橋はパールブリッジの三倍に及ぶ長さで、大変な手間と労力を要したことだろう。
公式に残る架橋は上の二件だが、更に遡って橋が架けられた記録がある。それは明治44年7月、国鉄参宮線が鳥羽に延伸した時のことで、「鳥羽町歓迎会」と題する『伊勢新聞』の記事は次のように伝えている。「来る21日鳥羽線開通式に臨場せらるべき後藤総裁のため名勝相島に停車場より船橋を架し同島に魚類の生洲を造り鯛鱸章魚(たい・すずき・たこ)其他の水族数十種を放ち釣又は網打ちの興を恣(ほしいまま)にせしめ(後略)」。この祝賀会は鉄道院総裁後藤新平を主として600名もの来賓を迎えた大規模な催しで、鳥羽はもとより近郷近在から人々が押しかけ、花火、和船競漕、能楽、鮑取りなど数々の行事で賑わった。相島も祝賀会場として使われ、七十間(127メートル)の浮き橋で連結したという。「鳥羽鉄道開通式」と題された絵葉書を見ると、駅から続く広場に大きなテントを設え、海寄りに人々が蝟集している様子がわかる。テントのひとつにはカブトビールとあり、ビア・ガーデンでも開いたのだろうか。仮橋はその広場から真珠島の、今の「真珠ヶ島」の碑から銅像までの護岸中央あたりに上陸しているようだ。島中は旗で飾られ、新聞記事のように生簀が設置されたのだろう、人の姿が見て取れる。このイベント終了後に島西北側の護岸が整備され、昭和4年に「真珠ヶ島」として整った姿で民間外交の舞台となる。指呼の間であっても船で渡ることで醸し出される旅情を、もてなしの達人・御木本幸吉は大切にしたに違いない。 ちなみに東京の豊海橋は1927(昭和2)年に架橋、今なお現役で利用されている。それを思うとパールブリッジは50年。まだまだ働いてもらわなければならない。メンテナンスを続けて大切にしなければ。
(2021年3月26日)
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