所用のついでに泉南の城下町岸和田市を訪れた。大阪難波からの南海電車は関西空港へ向かう旅行客で混み合う。30分程で岸和田到着。駅前の商店街を抜けて、お城周辺で昼になる。辺りを見渡すが飲食店は見当たらず、こういう時は検索するしかない。探し当てた一軒の店に電話を入れると席は空いているという。嗅覚に頼らずとも店捜しが容易になったのはありがたい。通りがかりなら眼に留まらないはずの細い路地を入り、奥の古い民家に上がって、若い女性スタッフに案内されたのは中庭をはさんで能舞台のある座敷だった。外観からは想像がつかない。ここは国の有形文化財に登録されている能楽堂で、もとは岸和田城内にあったのを大正時代に移設した由。今も現役の能楽堂だが、レストラン営業があり、ランチタイムとあって岸和田マダムで賑わう。ちょっと柔らかめのせいろ蕎麦を手繰って落ち着き、風の強い中を城に向かって歩いた。
堀を渡って門を潜り、城内に入る。岸和田藩は五万三千石。江戸時代を通じて殿様は代々岡部氏で、実は鳥羽と縁がある。最後の藩主だった岡部長職(ながもと)公が鳥羽を気に入って、避暑にしばしば訪れ、旧岸和田藩士が開発に関わった樋の山の皆春楼に滞在、鳥羽湾で舟遊びや釣りを楽しみ、夜は側近を従えて謡や舞に興じた、と回顧録にある。このことは130回の「樋の山」で紹介したが、その話を書く時に詳しい情報がないかと岸和田の教育委員会に問合せたことがあり、丁寧な対応をいただいた。そんなこともあって、一度は訪れたい場所だった。岸和田は大阪湾に面した町で、海辺の景観は見慣れていたはずの長職公がなぜ鳥羽を避暑地に選んだのか、樋の山開発に関わった一森彦楠という旧藩士の動機は何だったのか、解明できずにいる。
城は文政10年に焼失し、昭和29年に再建された。70年近くを経てなお美しい外観を保っている。内部はお約束の通り資料館になっていて、ここで岡部氏の治世下の歴史を一覧できる。天守から眼下を見れば重森三玲の設計によるモダンな庭園。堀を隔てると五風莊という屋敷がある。地元の財閥だった寺田利吉の旧邸宅で、今は料亭になっており、回遊式の庭は自由に拝見できる。茶室がいくつかあり、趣味人だっただろう主人の悦楽のあとを偲ばせる。こちらの料亭もまた、地元マダムの集うところらしい。
ところで岸和田といえば即座にだんじりが思い浮かぶ。表通りにはそのだんじり会館があるので、こちらを見学。まず、マルチビジョンで祭りの様子を見る。狭い町内の通りを駆け抜けるだんじりの姿は報道でお馴染みだが、大屋根に上がった大工方の視点を追体験できる映像は一見の価値がある。一方、展示されている文化文政年間から明治時代の車を間近で見ると、木彫装飾の匠の技が立体感を伴って実に見ごたえがある。ともすれば疾走する車の動きばかりが注目されがちだが、その全体が繊細な技で刻された木彫芸術だった。
最上階の体験室では岸和田キッズが将来に備えて太鼓を試し打ちして屋根の上を飛び跳ねる。これは入場者ならだれでも試せることになっているが、余所者が上るにはちょっと度胸がいる。それにしてもこういう伝統行事を一覧できる施設のあるのは意義深いことで、例えば伊勢市には式年遷宮の御用材を曳く御木曳行事があるが、その車を間近に見ることの出来る施設はどこにもない。しかも御木曳は二十年に一度なので、次の世代に伝えるためにはやはり早くから実物に触れさせることが大事だろう。少子化の時代であればなおさらだ。
会館の前を走る道路に並行する海側の道が紀州街道。淀川を下ってきた三十石船のターミナル八軒家から紀州和歌山に向かう幹線だった。家々に虫籠窓や出格子など往時の姿を良く残した街並みで、清潔な往来には今も人の生活がある。何とも気分の良い街道を駅に向かって歩くと、きしわだ自然史資料館がある。漁業の盛んな土地柄からか、ちりめんじゃこに混じった様々な稚魚を観察させることで話題になった博物館で、収蔵標本の充実ぶりは目を見張るものがある。時間がなくて速足になってしまったが、ゆっくり見れば発見の多い館に違いない。
駅前アーケード街に戻るまでの午後の道は閑散としているが、ここをだんじりとともに若衆が駆け抜けるかと思うと、よそ者ながら一度は実際に目の当たりにしたい気持ちにかられる。岸和田市の人口は19万人、意外にも主要産業は漁業と農業という。観光が産業の中核というわけでもない、大阪の近郊都市にこれほど見るべき場所がある。そう思えば、観光地を謳う伊勢志摩鳥羽はそれ以上の充実を求められる。伊勢神宮は圧倒的な存在だが、町全体はどれほどの魅力を湛えているだろう。隣の芝生は青い、ということだろうか。
2023年2月5日
松月清郎
能舞台のあるレストラン
岸和田城
五風莊庭園
紀州街道
だんじり会館(パンフレットより)
各施設パンフレット
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